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  この国にはめったなことがない限り、人が訪れなかった。
 この国へ来るための陸も、空も、海も、冬の前では敵わない。道を埋める雪、空からは一年中降りやむことのない雪花。海は寒さで凍っている。
 だからこの国に人は訪れない。手段がなければ近づこうとも、人々は思わなかった。未開拓の地であることから、それほどに興味も湧かなかったのである。
 この国について知っていることと言えば国の名前が“白の国”であること。



「や」

 ある日訪れた、珍しい、白の国への来訪者。来訪者と言っても、その青年は故郷へ戻ってきただけなのだけれど。
 雪に溶け込むようなその白色の家。ほんとうに、背景と同化してしまいそうなくらいに、その家はひっそりとしていた。
 けれど、そんな雰囲気をものともせず青年は家主の返事を待つことなく家へとあがる。
 家の中は必要最低限のものしか置かれておらず、暖炉で蠢く炎が際立って見えた。

「久しぶりに帰ってきたのに、言葉もないのかい?」
「……うるさい」
「普通の大きさだと思うんだけど」
「ここをどこだと思っているんだ」

 青年の明るい声とは対照的に、暖炉前の椅子に腰かける女性の声は冷ややかだ。
 端正な顔立ちに、艶やかな黒の髪。着崩れた着物から見える肌は白く艶やかだ。切れ長の瞳が青年を一瞥するが、その視線は再び揺れる炎に戻された。
 ごめん、ごめん、と軽く青年は謝り、向かいの椅子へと腰をかける。

「相変わらずこの国は静かだ」
「冬だからな」
「冬の次には春が来るのにね」

 雪の降り積もるこの国で、生命が眠ってしまうこの国で、騒ぐ動物も己を魅せる植物も、忙しく生きる人間も。全てが静まってしまう。時折、鳥のか細い声と 雪が落ちる音、人々が雪を踏む音が聞こえるくらいだ。
 他国の者の喋る声は白の国の人々にとってはやかましい。
 青年は言葉を言ったあと、少し切なげな表情をこぼす。
 この女性に、“冬”という言葉を教えたのは彼だ。
 この白の国の気候はずっと、雪が降って、寒いものだから。この国の気候をとやかく名称づけたりはしなかった。これが、普通なのだから。
 冬が続くこの国の人々は他の季節を知らない。
 花が芽吹く春も、生命が躍動する夏も、実り多き秋も。
 知っているのは、生命が静まる、冬だけだ。
 それが青年は少し悲しかったのかもしれない。
 世界はここだけではないと、冬以外の景色も、美しいものだということを知ってほしい。そんな思いだけで、青年はこの国を出た。
 国の外へ出て、帰って来た時に他国の話をすれば人々は世界を知るかもしれない。降りそそぐ雪花を絶望と思うのではなく、希望へと変えてほしい。
 ほんとうに、ただそれだけだった。

「他の国は美しかったか?」
「もちろん。特に日の国の桜は美しかった」
「……桃色の花だな」
「知っているのか?」
「お前のような物好きが前にいてな。わざわざこの国に持ち帰ってきた」

 女性が問いかければ、青年は子どものように明るく返す。女性の頬が少しゆるみ、青年もつい笑顔がもれる。
 女性が笑うなど、珍しい。それほどにその時のことが嬉しかったのだろうか。

「だがこの寒さと、重い雪のせいで、私の家へ訪れるころには、手に持っていた花弁だけになっていた」
「桜は暖かい季節に咲くものだからな。見てみたいと、思わないのか?」
「思った。だが出られないだろう?」

 ふと、諦めたように女性は笑った。自嘲しているようだった。
 この国から出るには大変な苦労がいる。降り積もった雪は重く厚い。道もない真っ白な場所を手探りで歩くのは無謀なことだ。
 それを、青年は成し遂げたのだけれど。

「この国から出られたのはお前とあの物好きだけだ」
「私はまたこの国を出る」
「そうか」
「一緒に、来ないか?」

 青年は緑の瞳で女性を見つめる。女性は驚いているようだった。蜜色の瞳には戸惑いの色がさしている。
 きっと青年が帰って来た道はもうない。雪で隠されてしまっているだろう。しかし、一度はこの国から出て、一度はこの国へと入ってきた。それならば二度目 も可能なはずだ。
 この国から出て、世界を、見られるはずだ。

「そんなことをあの物好きも言った」
「着いて行かなかったのか?」
「たかだか花の為だけに、出ようとは思わない」

 きっぱりと、女性は言う。それが答えだと言わんばかりに。
 だが青年も言いきった。それは嘘だと。

「貴方は世界を見たいはずだ。だから『出られない』なんて言うんだろう? ここに閉じこもっているのは冬のせいじゃない。自分が、出ていこうとしないだけ だ」
「出て行く価値がないだけだ」

 女性の声色は変わらない。雪と同じように、淡々と津々と言葉も降り積もるばかり。
 出ていけないのは阻むものがあるから。そんなこと分かりきっている。
 だからこそ諦めもすんなりと受け入れられた。絶望ばかりが降るこの国で希望を見出そうとしているのは、この青年くらいだ。

「価値なら、ある」

 この国で女の細腕を握り、国を出るなど大変なことだ。襲いくる寒さと、行く手を阻む雪。進んでも進んでも一向に景色は変わらず、時間が経っているかも分 からない。正しい道を歩いているかさえも。
 寒さと飢え、気が狂ってしまいそうな環境の中で誰かを護るなど、自分を犠牲にしなければやり遂げられない。
 それを知って、青年は言っている。きっと、“物好きな男”も同じだったに違いない。

「私の隣に、貴方がいてほしいから」
「──」

 女性は、言葉がでなかった。
 いつもなら雪と同じように、さらさらと言の葉がうまれるのに。
 青年の瞳は生命力溢れる蒼々しい葉と同じ色をしている。
 何も動かないこの国で、彼だけが前に進もうとしている。
 あの男と同じように。
 言葉につまったのはその為だった。そっくりなのだ、青年が。あの男と。
 光を宿した瞳も、自分を連れだそうとする言葉さえも。何もかもが同じで心地よくてつい頷いてしまいそうになる。

「あの男も、そう言った」
「だけど貴方は行かなかった」
「そうだ」
「どうして」
「あの男はほんとうに不思議なやつだった。連れて行くと言ったのに、先にどこかへいってしまった」

 女性は儚げに微笑んだ。昔を追憶するように。悲しみの色もあったけれど、諦念もその表情には見えた。
 彼女を連れて行くと言った物好きな男は、他国へ向かう数日前に死んだ。
 原因は他国からの病気にかかっていたからだった。白の国の薬では間に合わなかった。ましてや他国から薬を取り寄せることも叶わなかった。
 息を引きとるその瞬間、女性は側にいなかった。着いたころにはもう、男は雪のように冷たくなっていた。
 重い雪を恨めしいと思ったことはあったけれど、あの時ほど手足にまとわりつく雪が憎いと思ったことはないだろう。
 男がいなくなったその時から、女性は世界に興味がなくなった。
 男が伝えてくれた世界の美しさ。春に咲き誇る桜という花、太陽ばかりを見つめる花、炎のような色を灯した葉。
 その全てが、男の伝えてくれた全てが、雪が積もったように真っ白になった。
 色の無い世界が広がった。出たいとも出ようとも、世界を見たいとも思えなくなった。
 だから、怖い。
 色の無い世界を見るよりも、また大切な人が世界に出ることによって亡くなってしまうことが。

「私が、行かないと言っても、お前はこの国から出るか?」
「……私の想いは変わらない」
「だったら、この国で、私の隣にいてほしい」
「言っただろう。私の想いは変わらない。世界を見たいと思うことも、貴方が隣にいてほしいことも。変わらない」

 真っすぐな言葉だった。雪のように純白で、積み重なった何よりも重い、言の葉の山。
 青年の我がままかもしれない、それでも、それは女性の意思を読んでいるようだ。
 隣に青年がいてほしい、青年の隣にいたい。叶うのならば、あの男と夢見た、色の有る世界へ、踏み出したい。
 答えは決まっていたけれど、踏み出せないでいた。
 まとわりついた雪が重くて、心に淀む雲が雪を降らせるものだから。

「……世界を、私に見せてくれるのか?」
「ああ。その為に私は帰ってきたんだ。貴方の手をとるために」

 頬を伝う涙は暖かく、感情が揺れているのだと感じる。色の無いこの世界で感情も凍りついてしまっていたと思っていた。あの男が世界を見せてくれていたの に、閉じてしまったから。
 だけど、世界を知ったものがいた。世界を伝えたいと願うものが現れたのだ。
 そして、その男も言った。世界を知ってほしいと。そう自分に願ってくれる人物がいたのだ。
 色が無くなってしまったと思っていた世界に、鮮やかな色が飛び込んでくる。
 豊かな緑色の瞳が映し出す世界を見たいと思った。
 彼と世界を見る、そう、彼女は決めた。

「私はお前と、共に行こう、世界へ」

 女性は微笑んで青年の手を握る。
 きっとこの手は彼女の手をひいて、美しい世界を見せてくれる。
 夜空に舞う雪花が星のように輝いて見えた夜だった。
 その夜、彼女の世界は、始まった。


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