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「強さとは何か考えたことはあるか。少年」

 人の通りも少なくなった夜、レンガ造りの道へと腰を下ろした老人に、少年は問いかけられた。
 驚きと疑いの色が籠った瞳で少年は老人を見つめる。
 汚れた帽子を深く被り、葉巻をくわえる口の周りには髭がうっとうしいほどに伸びていた。瞳も見えない、表情も読めない。
 けれど、自分に危害を加える様子はなく、問いかけられた言葉からもそんな色はうかがえなかった。
 だから少年は少し考えて、いいやと首を振った。
 老人はそうだよな、と地に響くような低い声で返した。その声は少し弾んでいるように聞こえた。きっと、笑っているのだろう。

「ならば少年は恋をしたことはあるか」
「……さぁ」

 いかにも曖昧な答えだ。
 もしかしたら、誰かに恋をしていたのかもしれない。
 だが気づかなかっただけかもしれない。
“恋をする”という感覚が少年にはいまいち分からないのだ。
 だから『さぁ』という曖昧な答えを出した。 
 それに老人はふむ、と一言零し、髭をなぞり上を見た。
 そして少し考えた後にまた言葉を紡ぎだす。

「言葉を変えよう。少年は誰かを愛したことがあるか」

 これもまた先ほどと同じくさぁ、と答えてしまいたかった。
 だがまた曖昧な返事を返せば老人は更に質問してくるだろう。
 感覚が分からないのだから、答えようがない。“好き”と“愛する”という違いも分からない。
 だから、今度は「さぁ」と答えるのではなく、理由を喋った。
 すると老人は声を出して、夜空にヒビが入るのではないかというくらいに、大声で笑った。腹に響く笑い声だった。


「ああ。そうだな。お前みたいな年ごろはそうか」
「いえ。僕が変わっているだけだと思います」
「いいや。それじゃあ言い方を変えよう。──誰かを護りたいと思ったことはあるか」

 帽子の隙間から少年を見据える、海のように深い色をした青の瞳。
 鈍い光を灯すその瞳に怯えたわけではない。
 その言葉の重さに自分は粟立ったのだ。
 護る、誰しもが願う言葉。けれど、その願いを叶えることは難しくそれでも護りたいから、人は簡単に言ってしまう。
 その言葉の意味を知るものにとっては、何よりも重い、言葉。
 
「あ、る」

 たった、一度だけ。
 その子は護れないまま、死んでしまったけれど。

「それが恋だ。愛したいと思った相手だ」
「それが何ですか」
「その時、強くなりたいと思ったか?」

 少年は大きな瞳をそっと閉じて情景を思い出すように思考を巡らせる。
 前にいた街で戦争が起こった。死と隣り合わせの中で生活をしていた。
 空は灰色と赤色が混ざり合い、青色の空が広がる景色を見たのは随分と前になるほど、戦争は長引いていた。
 自分を護ることに必死だった。
 その中で、少年は一人の少女を護りたいと思ったのだ。
 爆音ばかりが響き渡る街で、少女は少年の名前を呼んだ。
 明るい声で、笑顔で、少年に手を伸ばしてくれた。
 護りたいと願った。この手をとって、戦火が広がる街から逃げ出そうとした。
 だから、言ったのだ。

『僕が、護ってみせるよ』

 少年はそう言って少女の手をとった。
 間違いではなかった。戦争に終止符を打つものがいないのだから。
 しかし、少女は死んでしまった。街から抜け出す途中で。
 自分が手を伸ばしたから。自分が弱かったから。
 自分が少女を護りたいと願ったばかりに──。

「思った。だけど、護れなかった」
「悔しかったか」
「勿論」

 その時を思い出したかのように、強く手を握りしめる。
 護りたいと願ったのも、護ると言ったのも少年だ。
 だけど護れなかった。悔しかった、悲しかった、惨めだった。
 たった一人も護れないなんて、護ると願ったのは少年なのに──護られて。

「誰かを護りたいなら強くなればいい。誰よりも強くなれば。さすれば他の命も自分の命も護ることができるだろう」

 そこで老人は言葉を区切って、短くなった葉巻を捨てる。

「口で言うのは簡単だろう。それでも出来ないことのほうが人は多い。特に命に関することは。その重さを知らない若人もまた、多い」
「……何の為に僕を呼びとめたのですか」

 老人は立ち上がり懐から葉巻を一本取り出す。
 立ち上がると今度はポケットから錆びたライターを取り出して火をつけた。
 もうもうと煙が葉巻の先端からあふれている。

「さぁ」

 老人は曖昧な返事を返して去って行った。
 夜の中に消えて行く老人の影。それを追うことはしなかった。
 理由を追究したところで、何かあるわけではない。
 夜の空は澄んでいた。ガラスを散りばめたように星は輝いている。穏やかな風が吹いて、少年の髪をわずかに揺らす。
 あの時のように煙の臭いはしない。天を焦がす赤色もない。
 自分を護ることに必死にならなくてもいい。
 耳に届く音は鳥のさえずり、笑い合う声、自分を呼ぶ声。爆音などどこからも聞こえてこない。
 それでも、いつも何処か満たされない。
 少女の姿が頭から離れないのだ。名前を呼んでくれる気さえした。
 また、少年の手をとってくれそうな気がして。

「   」

 少女を呼ぶように、少年はポツリと名前を呟いた。


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