>> 花を散らす男 > site index


 歩いて来た道程に、赤色の花弁が散っていた。男の軌跡を紡いでいるのではなく、それは一欠片の感情を示しているように思えた。
 男が歩く先には何があるのか。それを深く考えなかった。なぜなら、その先を知っているから。真っ白な空間に男と赤色の花弁しかなくとも、知っていたか ら。
 誰がそこにいて花弁は何の感情なのかを。それを拾おうとも一つの花にしようとも思わない。
 零れ落ちた感情は元には戻らず、また初めから育てるしかなかった。それが、男にとっては億劫で、恐れている行為だった──。



 ひどい顔をしている。洗面台に向かい、男は心の内で呟いた。
 夢のせいだ、今日見た夢がとても悪かった。きっと、洗面台に咲き誇る薔薇のせい。
 いまだに瑞々しさを保つ花弁にそっと触れて、一枚ぬきとった。湿り気のあるそれが、感情の一欠片だと思った。彼女へ向けていたのはきっと大きな花束だっ たに違いない。この赤色の花のような。
 薔薇の花言葉は、愛情。それが来たということは、いっぱいの感情を、つき返された、ということだろう。
 自分の感情は重かったか、返したくなるようなものであったか。花を愛情だと考えるのは何ともロマンチストなことだと男は思い、思考を中断させる。まだ彼 女と決まったわけではない。
 しかし、花の香りと同時に男の心をくすぐるのは彼女の姿。
 昔にあった、彼女への情が燻っているのだろうか。何も交わさず別れた彼女への未練があるとでも言うのだろうか。
 鮮明に残る彼女の輪郭に色をつけても、手を伸ばしても、それはただの記憶でしかないのに。
 花を手に取ろうと、花束の中に手をさしこむと硬いものが指に触れた。多くの茎に支えられて水の中に浸らずにあった、一枚のカード。
 ざらりとした質感の紙に薔薇の花が描かれており、電話番号と思われる数字が並んでいた。その下に、貴方へ、と細い字が綴られている。
 誰かの文字を指でなぞりながら、確信する。
 これは、彼女の文字だと。もしかしたら女性の字ですらないのかもしれない。けれど、彼女だと思わずにはいられなかった。信じたかった。
 消える輪郭に、縋るように手を伸ばす自分を、救いたかった。


 ──自分は逃げたのだ。
 確かめることが怖かった。自分の気持ちも、彼女の気持ちも。離れてしまった時点で、彼女がつくった言葉に情を感じなくなった時点で、気づくべきだったの に。
 それでも自分に彼女のことが好きだと言い聞かせて、結局、離れてしまって。彼女もきっと同じことを思っていたのだろう。
 そうして関係は自然となくなって、あやふやな気持ちを今でも引きずっている。
 そして、彼女が綴った言葉に、動揺している。
 遠距離になった時、彼女への想いはあった。同時に薄れてゆく意識もあった。まるで、今日見た夢のように、一欠片ずつ落としていって、最後には何もなく なってしまうような感覚を心の底で感じていた。
 夢の中で──感情のないからっぽの自分と、花びらを抱えた彼女が、立っていた。それは分かっていたことで、彼女の抱えている花びらもまた感情の一欠片 だった。
 二人の感情はばらばらになっていた。それでも彼女は集めて、元に、戻したかったのだろうか。散って形をなくしたものでも。その欠片は感情であり記憶であ り二人で育てた思い出。
 だが今更それを思ったところで何も変わらない。この番号に電話をかけてみるかと数字を目で追っていると、電話がなった。
 見ていたものが番号だったから少しどきりとしたが画面には妹の名前が表示されていた。昨日何か忘れ物でもしたのだろうか。そんな様子はとりあえずない が。

「昨日言い忘れたことがあったの!」
「お母さんから?」

 忘れ“物”はしていなかったようだ。きっと母からの小言に違いない。

「内緒!」

 は、と男の声が短く漏れたのは言うまでもない。

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