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アパートに住む男のもとに花が届いた。それは薔薇で、真っ赤に色づく花弁には水の雫が滴っており、朝日にあたりきらきらと輝いて見えた。
両手いっぱいの薔薇は玄関に置いてあり、差出人は不明だった。こんな立派な薔薇なのだからさぞかしお金がかかっただろう。
しかし、何故。花を贈るような趣味の友達も知り合いもいなければ、両親がこんなことをするわけがない。思い当たる節はなかった。
いつまでも外に置いておくわけにも行かず、薔薇の花束を抱えて洗面台へと向かった。
朝ごはんを食べながら、男は考える。あの薔薇は何だろうか。後からお金の請求でもされるのだろうか、送り主を間違えたか。飾るにしても両手で持つのが
やっとの量だ。小さな部屋ではきっと飾りきれない。
とりあえず両隣の人に聞いてみるか、と食パンを一口食べた。
両隣の人に聞いた結果、どちらも違うとのことだった。届けた人物に心あたりはないかと聞いてみても知らないとのことだった。宅配屋の影もなかったと言う
から、きっと送り主は朝早くに届けてくれたのだろう。
時計は十時を指している。今日は土曜日で仕事は休み。予定はあっただろうかと考える。そして、思い出した。
「しまった」
今日は妹が来る日だった。少し離れたところに住む妹は昼には来ると言っていた。見られてまずいものはないが、部屋が汚い。家具は少ないのだが服や雑誌、
ゴミが床に散らばっている。男は慌てて脱衣所や台所を行き来し最低限の片づけをする。妹は口うるさい。あれやこれやと言われてはめんどうだ。
昼ごはんは食べてくるのだろうか。男はそう思い立って妹にメールを送った。するとすぐに返信は返ってきて、作って、という短文が目に飛び込んだ。
聞くんじゃなかったと自分の優しさを後悔しながら冷蔵庫を開ける。
「聞くんじゃなかった」
今度は声に出して。両手で顔を覆い、現実から目をそらす。冷蔵庫の中は空っぽだ。雛鳥が親にエサを貰う時のように大きく口を開けている。
まだ妹が来るまでに少し時間がある。男は重い腰をあげて、アパートを出た。
空の冷蔵庫といっぱいの薔薇の重さを持ちながら。
からからとカートを引きながら食材をカゴに入れていく。焼きそばでいいだろう、と安い麺をいれてキャベツと豚肉とソースがなかったなと思い出してソース
のコーナーへと向かった。
薔薇という気品漂う花がこじんまりとした洗面台にぽつんと置かれているというのはおかしな話だとソースを手に取って思った。
贅沢をする余裕もファーストフードに行く気にもなれない自分に何故あんな薔薇が。
赤く彩られた一角だけが違う雰囲気を醸し出しているようで、異様な存在感があった。
けれど、懐かしい匂いがした。薔薇の香りではない。この雰囲気を知っているような──。
違う違うと自分に言い聞かせて、男はレジへと向かった。
「おっそい」
「昼飯作れって言うからだろ」
アパートへと帰れば妹が扉に背をあずけて佇んでいた。それはそれは不機嫌な顔で飛んで来た言葉も乱暴なものだった。食材の入った袋を妹に手渡すと部屋の
鍵を開けた。
はやくしてよ、と言わんばかりに買った食材を乱暴に台所へと置いて、妹は居間でくつろぎ始める。
はいはいと気だるげに返事をして調理を始めた。調理と言ってもただ切って炒めるだけなのだけれど。
十分が過ぎたころだろうか。妹がトイレと一言零して洗面所へと走って行った。
「お兄ちゃん! あの薔薇! 何?」
トイレに行くのではなかったのか、と言いたくなるほどの勢いで戻って来た妹にため息を零した。
男自身が事情も分からないのに妹に追及されてはめんどうだったからだ。
しかし妹の反応は当然だろう。花を贈るなどよっぽど好意のある相手でなければありえない。男にはそういった素振りがあまりなかった為、妹の目は好奇心で
満ちていた。
ああ、説明がめんどうだと菜箸で麺を炒めながら思うのだった。
「絶対変だよ、それ」
「おかしいって言ってるだろ。誰か思い当たる人いないか?」
「えー」
もっともらしそうに顎に手をあてて妹は考えている。空になった皿を片付けながら回答を待つことにした。
「分かったー!」
大きな声で叫ぶのは迷惑だからやめてほしいのだが、と少しの悪態を心の内でついて誰だと聞き返す。
「お兄ちゃんの初恋の人!」
「そう来たか」
初恋の人であり、初めて付き合った女性が一人いた。その女性以降、彼女という存在はいない。
別れてから四年以上が経っている。大学へと進学する時に遠距離になって自然消滅。よくある話だと今では思う。水道から水が流れるのと同じくらい自然なこ
とだと。
お互いの想いが通いあっていても遠くの距離では伝わらない。機械からの声が、無機質な文字の羅列があったとしても、だ。実際に触れて、会って、言葉を交
わさなければ相手の熱は分からないのだ。
だから熱が冷めてしまったのだと思う。二年前の同窓会の時に彼女は来なかったが、結婚相手がいるという話を聞いた。
ああ、そうか。という思いが感情としてあるだけで他には何もなかった。
後悔も悲しさも嫉妬も何もない。募っていた慕情はそれほど淡かったのかと問われればそうではないのだけれど。
「違うよ多分」
「多分って何よ」
「分からないってこと」
意味分かんない、と吐き捨てるように言って妹はふてくされた。
意味が分からない、それは男の台詞だ。
あの薔薇から感じた懐かしい匂い──それはきっと、彼女の、匂い。